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第二話 届いた手紙

Auteur: 月歌
last update Date de publication: 2025-07-04 15:39:11

朝の光が、まだ冷たい空気を透かしている。

有坂ひかりは、店の入口に置かれた郵便受けの扉をそっと開けた。中には、一通の封筒が静かに横たわっていた。無地の、それでもどこか品のある封筒だった。

差出人の名は、筆記体で小さく書かれている。

――如月怜一郎。

昨日、突然現れた男の名が、墨の香と共に蘇る。

店の戸を閉め、カウンターの奥へと歩いていく。陽が入るように、レースのカーテンを少し開けてから、封筒を手に椅子へ腰掛けた。

封は、丁寧に折られていた。中には、淡い青みを帯びた便箋が三枚、静かに収められている。

黒インクで綴られた万年筆の文字は、くせのない几帳面な筆跡だった。けれど、ところどころ筆圧が微かに強く、隠しきれない意志のようなものがにじんでいる。

---

> 有坂ひかり様

昨日は突然のご訪問、失礼いたしました。改めてご挨拶申し上げます。

私、如月怜一郎は、貴女の母上・真木澄江様のご実家――真木伯爵家より命を受け、参上いたしました。

昨日も申し上げた通り、私が伯爵家の跡継ぎとなる条件は、貴女との婚姻であります。これは「形式上の契約」であり、貴女の自由を奪うものではございません。

ただし、契約が成立しました暁には、伯爵家の邸にて共に暮らしていただきます。「婚姻」という外形を保つためです。

ご安心ください。部屋は別にご用意します。生活に干渉はいたしません。

また、この契約は、伯爵様がご存命のあいだに限るという取り決めも変わりません。

なお、契約が結ばれた後、貴女のご両親の喫茶店の維持について、私より適切な支援をさせていただきます。地代の件も、すぐに対応可能です。

一方的なお願いで恐縮ながら、今週末、再度お伺いします。ご返答をいただければと存じます。

如月怜一郎

---

ひかりは、便箋をそっと畳み、カウンターの上に置いた。

どこか、彼らしい手紙だと思った。まっすぐで、理路整然としていて、けれど最後まで感情らしきものは書かれていない。

ただ――

「地代の件も、すぐに対応可能です」とあった。それは、現実の痛いところを的確に突いていた。

両親が遺したこの店は、今まさに存続の危機にある。滞納が続けば、近く差し押さえの通告が来るかもしれない。

思い出だけでは、守れないのだ。

けれど、自分の人生を、形式とはいえ誰かに預けるというのは、簡単に決めていいことではない。迷いがあった。

ため息すら出なかった。それほど、すでに心が疲弊していた。

ふと、カウンターの下に積んだ封筒の束が目に入る。税の催促状。地代の督促状。どれも、如月の万年筆の文字よりずっと冷たい活字だった。

ひかりは立ち上がり、便箋をもう一度手に取った。黒インクの文字の下に、まっすぐに並ぶ彼の署名――「如月怜一郎」。

この人と、夫婦として――暮らす?

現実味はなかった。

けれど。

その胸の奥に、ほんのわずかに芽生えた感情は、恐れでも拒絶でもなく――不思議な安堵だった。

カップボードの扉を開け、母が好んで使っていた白磁のカップを一つ取り出す。その底には、小さく金色の刻印があった。

「M.S.」――真木澄江。

すでに絶縁したはずの母が、実家の名を記した食器を大切に持ち続けていたこと。すべてを捨てて家を出たのではなかったのかもしれない。

ほんの僅かでも、母は伯爵家に未練を残していたのか。あるいは――何かを、託したかったのか。

ひかりはそのカップを、両手で包み込むように持ち、ぽつりと呟いた。

「……私、どうしたらいいの」

その声は、誰にも届かない。けれど、胸の内で――ゆっくりと、答えが形を取りはじめていた。

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  • ~契約結婚からはじまる恋〜大正浪漫 喫茶・香蘭堂~   第十七話 私の場所

    数日が過ぎても、ひかりと玲一郎の間の距離は埋まらなかった。言葉を交わさぬまま、時間だけが過ぎていく。伯爵邸で働く使用人たちも、その空気を感じ取っているのか、ひかりに向ける視線はどこか遠慮がちだった。(このままじゃ、駄目……)今日こそは、ゆっくり話をしよう。そう思い立った矢先――「しばらく、基地に詰めることになった。戻るのは数日後だ」玲一郎の言葉は淡々としていたが、どこか言い淀むような気配があった。玄関まで見送ったひかりは、何か言葉を待っていた。けれど、玲一郎は何も言わず、軍帽をかぶり、振り返ることなく屋敷を出て行った。その背中を、ひかりはただぼんやりと見送るしかなかった。---重たい足取りで部屋に戻り、ひかりは椅子に腰を下ろした。読みかけの本を手に取ってみたものの、ページをめくる指先に力が入らない。物語の世界に入っていけず、内容もまるで頭に入ってこなかった。(……暇だな)大きなため息がひとつこぼれる。(伯爵夫人って、何をするべきなんだろう)格式ある家に嫁いできたけれど、誰からもはっきりと「こうしてほしい」と言われることはない。ただ礼儀正しくしていればいいのか、家の中を取り仕切ればいいのか、それともただ静かにしていればいいのか――答えは見つからなかった。思い出されるのは、両親と過ごした喫茶店の記憶。母と一緒に焼いたスコーン。父が丁寧に淹れていたコーヒー。夏にはみつ豆、冬にはシナモンティー。庶民的だけど、どこか特別な時間を提供する場所だった。けれど、両親を失ってから、香蘭堂はゆるやかに傾いていった。(あの噂がなくても、きっと私の力だけでは……)常連客も離れ、店内には静寂が漂っていた。(私は、ただ両親の背中を追いかけていただけだったのかもしれない)そして、心の奥に湧き上がる別の不安。(契約結婚だって、いつまで続くか分からない)祖父が亡くなったあと、玲一郎が別れを切り出したら?あの丘の上で見かけた、あの女性が――真木伯爵夫人としてこの家に迎えられたら?(そんなの、嫌……)けれど、「離婚しないで」としがみつく自分を想像すると、それもまた情けなくて、恥ずかしくて、嫌だった。---気分を変えたくて、ひかりはそっと部屋を出て裏庭へ向かった。広い庭園の一角にあるバラ園は、初夏の陽射しを受けて、色とりどりの花がゆるや

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